思い出

写真は、2003年三重県四日市の学生王座戦での慶応大学将棋部。後列左がS氏。 リンク先→慶應義塾大学将棋研究会 選抜奮闘記5*1とき 平成15年(2003年)11月30日(日) ところ 駒沢大学 棋戦名 学生王座戦 関東代表選抜トーナメント決勝(二将戦) 先手 岡部…

04年帰省したS氏は、普及面で大きな功績を残した。04年後半から06年前半まで続いた斉藤教室は、小中学生を対象に、棋書を丁寧に読み、実戦を重ねていくものであった。 塩見、三森、本池の高校生、07年9月のこども教室対抗戦(大阪)優勝の沖田、田口君はじ…

04年帰省したS氏は、支部対抗戦西日本大会に3年連続参加した。07年にベスト4に入り、四段の正式免状を獲得した。(写真中央) また、06年の山陰名人戦では、藤井真司氏(松江市)に勝ち、3位となった。 同年の朝日アマ名人山陰ブロック大会では、惜しくも3…

S氏は、90年代後半の鳥取県高校棋界において、圧倒的な存在感があった。主な棋歴は、98年高校新人戦4位、高文祭団体の部に米子東高として3年連続参加している。また、98年の鳥取県で開催された全国高文祭の開会式では鳥取県の高校生を代表して挨拶をしたの…

3日の三森君の西部名人を祝う会は、同時に斉藤健一氏(大山町、会社員、26歳)との別れを惜しむ会となった。斉藤氏は今月中旬、鳥取県を離れ、東京へ転勤する。会の終了後は、後輩の阿部広之介君もかけつけ、遅くまで朝日町で送別会を行った。 今日から5日間…

81年当時、鳥取市の浦田信一氏(鳥取支部長)が東部の強豪とともに淀江町を訪ねたもので、82歳の三好翁も3時間近く車に揺られて会場の淀江町中央公民館に到着されたと思う。 相手の淀江の法本氏は指し盛り、荒法師と呼ばれていた。 日本海新聞観戦記からの…

今週月曜夜の師範代のコメント『三好さんは私より上の世代の人でないと知らないでしょうねえ。80過ぎても山陰名人戦の県代表になった凄い人ですけど、亡くなって20年以上経ってますからね。』から、カラスは四日間長考しました。 で、郡家の三好翁に立ち…

西部名人戦3番勝負まで、あと2日となった。 昨年名人位に返り咲いた勝部素光氏は、1936年(昭和11年)生まれで今年71歳。スポーツ・芸能で言えば、長島茂雄・里見浩太郎・野際陽子と同年である。 その勝部さんは、第3期西部名人戦で角行孝名人(…

楽しい思い出(後) 週刊ポストの企画で、芦沢孝行氏(米子市両三柳)が田中寅彦九段に挑戦したのも、今は良き思い出となった。 当時の誌面で、湯川恵子さん(観戦記担当)にバッチリまとめて頂きました。以下、抜粋のイイトコ取りです! 『(略) さて、こ…

週刊ポストの企画で、田中寅彦九段が米子に来られたのは、?年前の楽しい思い出。 写真は、芦沢孝行さん(米子市両三柳)の栄えある挑戦の瞬間。 同行の湯川恵子さんには、米子をしかっりPRして頂いた。大きめの活字から入ります。 「逃ぎょか逃ぎょかと米…

昭和37年11月3日 米子市大篠津町 足立康雅宅 ▲四段 宮崎秀雄(米子市・27歳) △五段 森恵十 (米子市・81歳) 森氏は当時の山陰棋界の長老で、大正の末から昭和の初めにかけて、中国一円で無敵を誇った強豪。 72歳の時、第4期(昭和27年)アマ名人戦鳥取県代…

記録によると、アマ名人戦は昭和22年(1947年)から始まっているが、鳥取県から代表が出たのは昭和24年(1949年)となっている。 第1期から第3期は大田学氏*1、第4期(昭和27年)が森恵十氏、第6期(昭和29年)が宮脇敏行氏である。大田氏は35歳から37歳の時…

昭和61年から現在の各県代表1名の狭き門となった。(それまで代表3名)翌昭和62年に宮本浩二名人(広島)が誕生した。 平成元年に平井正人四段(米子市)が鳥取県代表となったが、2勝3敗で3位に終わっている。この年は高木栄典支部長が病の床に倒れた年で…

宮崎・山中戦*1昭和31年12月24日 米子将棋大会 米子市角盤町4丁目 宮脇敏行宅 ▲四段 宮崎秀雄(米子市・21歳) △四段 山中一央(会見町*2・27歳) 山中一央氏は、当時西部地区では若手新鋭の一人で昭和31年度アマ名人戦の鳥取県代表であった。 ▲…

昨夜から雨。日中は暑いが、夜はそうでもなく寒暖の差がある。今週が風邪気味の人をたまに見かける。 今日は午後から米子市児童文化センター(こども将棋クラブ)と西部支部道場の2箇所で営業活動(?)です。 6月4日の詰将棋の解答は次の通りです。 ▲4三金△…

故高木栄典支部長の文章の続きです。 何分当時の大道詰将棋は、平均手数三十五手前後が主流でありましたから、小父さんは再度絶対詰むと言いました。少年は、すかさず「僕が逃げるから小父さん詰めて下さい」と言った。「よし、後で吠(ほ)え面(づら)かくな、…

故高木栄典支部長は、県西部将棋界の最大の功労者であった。84年(昭和59年)、「プロの横顔」と題した高木先生の文章を紹介したい。 さて、時は大正十一年の或(あ)る日(季節不詳)、友達の父親が大山寺で行われる牛馬のせり市に行くとのこと、少年も誘われ…

今でこそこの山陰でも将棋の強い子は珍しくはないが、89年(平成元年)頃、つまり高木栄典支部長が健在の頃、南波君(小学1年)という天才少年がいた。確かその頃は大会ではジュニアのクラスはなかったので、Cクラスに参加し結構大人を負かしていた。ただ、…

昭和45年の第13期名人戦挑戦者決定大会は、米子市皆生温泉の弓ヶ浜荘で開かれ宮崎秀雄五段(米子市)が勝ち残った。小阪英男名人(津山市)との3番勝負は、10月31日、津山市の雅城閣で行われた。宮崎五段は1勝1敗のあと、惜しくも名人位を逃した。優勢な将棋…

97年、学生の棋力が急速に向上してきたのが10年前である。その頃、書いた簡単な文章があるので紹介したい。 近年の将棋ブームが追い風となり、将棋の強い学生が次々と生まれている。大会でも苦い敗戦の記憶を昨日のことのように覚えておられる方もあると思い…