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記録によると、アマ名人戦は昭和22年(1947年)から始まっているが、鳥取県から代表が出たのは昭和24年(1949年)となっている。
第1期から第3期は大田学氏*1、第4期(昭和27年)が森恵十氏、第6期(昭和29年)が宮脇敏行氏である。大田氏は35歳から37歳の時、森氏は72歳の時、宮脇氏は57歳の時のことである。
大田氏は真剣師として有名であるが、後に続いた年長の森氏・宮脇氏は同じ世界に生きた先達(せんだつ)であった。
真剣師の話を宮崎秀雄五段*2から聞いたのは、随分以前のことである。
宮崎さんが結婚し所帯を持った頃であるから、昭和30年代のこと。皆生新開の自宅に一人の老人が訪ねてきた。老人は粗末な身なりで、しかも米子駅から歩いてきたという。老人はその世界で有名な真剣師であった。
出勤前の玄関先で自転車のハンドルに手をかけていた宮崎さんは、「私は今から仕事に出るところで、残念ながらお手合わせすることができません。大篠津に足立康雅という人がいます。」と言って、地図と紹介状を書いた。宮崎さんが20代の頃の早朝の出来事である。
「で、その老人は皆生から大篠津まで歩いたのですか?」と身を乗り出す私に、「あのとき足代を渡しておくべきだった。それがこの世界の礼儀なのだが・・」と宮崎さんはほろ苦い記憶を噛みしめるように語った。
老人はどの道を歩いたのだろうか。美保湾を右手に確かめながら、ゆっくりと歩いたのだろうか。真夏の炎天下の暑い日だったろうか。雨の降る日だったろうか。砂埃(ぼこり)舞う日だったかも知れない。