平井四段(左)


 昭和61年から現在の各県代表1名の狭き門となった。(それまで代表3名)翌昭和62年に宮本浩二名人(広島)が誕生した。
 平成元年に平井正人四段(米子市)が鳥取県代表となったが、2勝3敗で3位に終わっている。この年は高木栄典支部長が病の床に倒れた年であった。38歳の指し盛りであったが、以後西部支部の運営がすべて平井氏の肩にかかってきた。
 平成3年1月、高木支部長永眠。平井氏が中心となり、大勢の将棋関係者で葬儀を行った。この年の秋、再び県代表になると、10月12日、広島市中国新聞ビルで行われた挑戦者決定大会は4勝1敗で優勝、宮本名人への挑戦権を獲得した。3番勝負は惜しくも及ばなかったが、中国名人戦3番勝負に鳥取県西部が名を留めた最後の年となった。
 以後、平井氏(西部支部幹事長)は徐々に一線から退いていった。高木支部長の志を継ぎ運営方にまわると共に、現在の西部支部発展に力を尽くしていった。


 写真は鳥取県王将戦で、中国名人戦とは関係ありません。