karasunogyozui2008-05-05

 3日の三森君の西部名人を祝う会は、同時に斉藤健一氏(大山町、会社員、26歳)との別れを惜しむ会となった。斉藤氏は今月中旬、鳥取県を離れ、東京へ転勤する。会の終了後は、後輩の阿部広之介君もかけつけ、遅くまで朝日町で送別会を行った。
 今日から5日間、斉藤氏の青春の軌跡を振り返ってみたい。


 画像隠岐の石楠花(しゃくなげ)。(5/3松江市石橋町で撮影)


 00年、米子東高を卒業した齋藤健―氏は慶応大学に進学した。。
 03年、慶応大学最後の学年に学生王座戦(全国大会10校)の関東代表(代表枠2)の座をかけて戦った。慶応は00年から02年までの3年間は関東代表になっておらず、斉藤氏にとって最後のチャンスとなった。
 すでに東京大学(リーグ戦優勝)は決定していた。残る1枠は選抜トーナメントとなり、慶応大学は準決勝の明治大学戦を制し、決勝の早稲田戦に臨んだ。


選抜奮闘記1*1
とき  平成15年(2003年)11月30日(日)
ところ 駒沢大学
棋戦名 学生王座戦 関東代表選抜トーナメント決勝(二将戦)

第1譜
先手 岡部亮 (早稲田大学2)
後手 斉藤健一(慶応大学4)
 
 「相手にとって不足は無い」これが僕の心境であった。オーダー表の時点で、真っ向うからぶつかればやや有利なオーダーだった。
 実際の当りは、以下のようになつた。
大将戦:小関(慶應)高木(早稲田)
2将戦:斉藤健一慶應) 岡部 (早稲田) 周りの予想では岡部有利だが自分は勝つと思っていた。
3将戦: 葛山(慶應)知花(早稲田)
4将戦:斉藤優慶應) 鹿島(早稲田)
5将戦:小林(慶應)高島(早稲田)
6将戦:神谷(慶應)河崎(早稲田)
7将戦:小川 (慶應)関根(早稲田)


 後に高木に聞いたところ、早稲田としては理想的な当りである。また小関も相当このオーダーになったことを後悔していたようだった。(飲み会談)
 しかし僕は、(早稲田が)真っ向勝負を避けた時点で精神的に負けていると思い、試合開始前は何故かチームが負ける気はしなかった。


 まあ、この対局だけではないが、自分は「有言実行」をモットーにしてきた。一時期、有言不実行であつたときもあるが・・。3勝3敗から齋藤一岡部、齋藤勝ちで、慶應勝ち。こんなことをずーっと言っていた気がする。
 とりあえず、早稲田戦では岡部と当るのがほぼ確実だったため、棋譜を並べて研究していた。団体戦では対振飛車棋譜が多かったため、前日24*2棋譜を並べた。そうすると右四間を指しているのを見つけ、頭の片隅に置いておいた。それでは齋藤一岡部戦の解説に入りたい。


 岡部の先手で始まる。▲76歩 △84歩 ▲68銀 △34歩 ▲77角・・・。
 ここでクリリン*3は「もう齋藤さん勝てない。」と思つていたらしい。僕は24で並べた棋譜に同じものがあったので、とりあえずそんなに慌(あわ)てることなく指し手を進めた。しかし、なんとなく不安そうな素振りを見せるため、弱気そうな手つきで駒を進めた。勝負術の一つで、正にその通りだと思うものに次のものがある。 (以下スラムダンクより)「『あれ、違う。』『どこか、違う。』その積み重ねが、最終盤に生きてくる」これは自分が負けるときにもそう思う。この手何か良くわからないな、という少しの不安が積み重なり、最後「やはり負けかぁ」と思いながら負けたことが数回。
 そしてこの図A(19手目)。岡部が右四間に振つた局面である。ここで僕はノータイムで指をしならせて43金右。普通の手ではあるが、これは「そちらが右四間をしてくるのは研究済みです。」という一種のブラフ*4である。


 そしてお互い駒組みが進み、B図(33手目)。岡部が少し考えて▲49飛と引いたところである。


*1:慶應棋報119号上巻・斉藤健一氏の自戦記より

*2:インターネット将棋

*3:後輩

*4:ハッタリ