当時の強豪を地区別に回顧すると、鳥取市には、児島四段、上山四段、前田三段、松本二段、勝原二段。郡家町には三好三段。倉吉に大田五段。赤碕には岩本二段、稲田初段、佐伯初段。西伯町には西初段。米子では、椿四段、鹿津三段、益田三段*1、池岡三段、牧野三段、堀口二段、小泉初段、三好二段、白川二段、山口初段、古島初段、伊藤初段、庄司初段、杉原初段等。会見町には山中一央初段。*2米子市夜見町に森恵十五段。大篠津町に足立三段。境港には佐々木四段、角行孝二段、角勝二段、福島初段等。他に初段クラスの人は多士済々だった。当時の初段は権威があって、現在の二、三段クラスに当ると思う。
 そして昭和20年の後半から昭和30年頃にかけて台頭して来たのが、鳥取市では米村、森脇、福本の新鋭で、森脇、福本の二人はプロ棋界に入ったが、大成せず三段と二段で終わっている。福本は若くして亡くなった。
其の他松本二段は五段まで昇り、第1期中国名人になっている。中部では赤碕の岩本二段がアマ名人戦県代表となり四段に昇進している。手強い将棋だった。また稲田初段は四段まで上がり、県の大会でも常に優勝にからむ指し手だったが、惜しむらくは昭和38年頃、まだ31歳の若さで事故のため亡くなった。そして会見町の山中初段、米子からは宮崎が台頭して来たのである。
 (96年6月、宮崎氏の文章より)

*1:米子棋界で最強組の一人で、激しい攻め将棋だった。昭和29年頃、氏を目標にして精進した思い出がある。当時30歳。

*2:昭和29年アマ名人戦鳥取県代表。当時25歳。