冠島

 戦後の鳥取県棋界の話は、宮崎秀雄氏(米子市新開、04年度のシニア名人)からよく聞かせて頂いた。その貴重なお話を文章にして頂いたのが90年代の中頃のこと。以下は宮崎氏の文章の抜粋である。


此の所、プロ・アマ棋界を問わず、その隆盛ぶりには目を見張るものがある。戦後、間もない頃、私が本格的に将棋の世界に足を踏み入れた時代に思いをはせれば、ひとしお「今昔の感」を感じる。公式の大会では、昭和27年に米子棋界に初めて出場したが、其の当時の強豪等の顔ぶれは、現在、ほとんど故人となられた。
 確か昭和27年の6月頃であったと記憶するが、米子市万能町にあった料亭「三光荘」でアマ名人戦の県予選が行われた。参集した強豪では、倉吉の大田学五段、米子の森恵十五段*1、東伯の宮脇敏行四段*2等、プロになる前の佐伯昌優初段(16歳)の姿もあった。この大会を制したのは、大田五段で昭和25年から3連覇を達成。此れ以後、大阪に居を移し、セミプロの世界に進まれた。

*1:森恵十五段は、当時山陰棋界の長老で、大正の末から昭和の始めにかけて、中国一円で無敵を誇った強豪であった。小生の若い頃、特に目をかけて頂いた思い出がある。昭和37年、大篠津の足立康雅氏宅で対局した当時、氏は81歳。

*2:宮脇敏行五段は、セミプロの大田学五段の師匠格にあたる人。東伯町出身。非常に将棋を愛された人。小生の若い時、椿氏と並んで一番多く戦った人である。昭和38年、大篠津の足立康雅氏宅で対局した当時、氏は66歳