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 日本晴れの昨日の日曜日、満開の桜を見ようと、朝9時半に米子を出ました。
 高速を走り、岡山県津山市の院庄ICから、鶴山(かくさん)公園を目指したのです。混雑は覚悟していましたが、院庄の料金口から渋滞、この先6キロの走行は一体何時間かかるのでしょうか。駐車場はあるのでしょうか。なかなか一般道に出る事ができず。信号待ちで、左が鶴山公園方向に延々とクルマの列。右が奥津温泉方面で、クルマは一台もナシ。
 この瞬間、戦意喪失となり、「はぁ、奥津に行くか!」と、ハンドルを右に切ったのです。この諦めの早さ。だから、将棋が強くならなかったのです。



 吉井川の上流にある奥津温泉に到着しました。渓流は所々で大きく音を立てながら白く泡立ち、そして川べりには遊歩道があります。
 この道を何度となく歩いては、奥津の自然に触れ、それを歌にした東京の中年夫婦*1がいました。1933年(昭和8年)のことでした。
 では、今から米子の中年夫婦がその道を歩くことにします。






 遊歩道脇には、夫婦の歌碑があります。



 では、夫の歌を三首。
 衣洗う 奥津のおとめ 川床の 清きに立ちて 踊るごと踏む
 岩まろく 盤の形を 月も来て 奥津の渓(たに)に ゆあけするかな
 大山を すでに感ずる 心なり 奥津の渓に 遊ぶ涼しさ



 妻の歌を三首。
 山陰と 山陽の山 立つ中の 奥津の夏に 浴めりわれは 
 かじかども 分水嶺を 何ばかり 離れぬ山の 渓にて鳴く 
 風立てば 踏洗濯の 少女子(おとめご)が 占めたる岩も 波越して行く 


 東京の夫婦は、どうやってこの地にたどり着いたのでしょうか。77年前の夏、すでに鉄道は津山まで来ていた筈ですから、そこから吉井川を船で上ったのでしょうか。


 東京の夫婦が奥津温泉に投宿した年から、さかのぼること29年、1904年(明治37年)の日露戦争開戦の年。旧制米子中学の学生(現米子東高)は、境港から阪鶴丸という客船で舞鶴港に着くと、京阪神一円を旅し、帰りは鉄路で津山に着き、その先米子まで徒歩で帰ったといいます。約半月間の修学旅行でした。


 遠い時代の米子の中学生達も、この奥津の宿で休み、川の清流を見ていたかもしれません。
 温泉街と言っても、時計の針が止まったかのように静かです。建物の造りからかつての賑わいを想像するしかありません。




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*1:与謝野鉄幹(60)・晶子(55)