K氏とは?(中)

なぜ、力が出ない!
 84年(昭和59年)11月25日の第7期西部名人戦挑戦者決定大会は、米子市東町 米子市研修センターで行われた。
 高校生にして初めて決定戦に臨んだK氏。決勝の対戦相手は、山中一央氏(会見町、54歳)。座を外して休息を取りに会場の廊下を歩くのだが、足元にふるえが来たのを今でも覚えていると言う。18歳での決勝進出であり、無理からぬことであろう。K氏は平素の力のほとんど出せず、無念の一局だった。
 翌年には大学進学、生まれ育った米子の地を離れる。(以下、当時の観戦記から抜粋。)




昭和59年11月25日
第7期西部名人戦挑戦者決定大会 
米子市東町 米子市研修センター
▲四段 山中一央(会見町、54歳、写真左)
△   池本 健(米子市、18歳、写真右


 山中氏は、こヽまで得意の四間飛車を駆使し、安定した戦いぶりで勝ち進んできている。一方の池本氏は、優勝候補の興津四段に、逆転勝ちしたのが大きく勢いにのっての決勝戦進出である。A図まででお互い布陣が完成したわけであるが、山中氏の注文によりやゝ変則的な序盤となった。山中氏とすれば、経験豊富な四間飛車左美濃の戦いに持ちこめたことにより指し易さを感じたのではないだろうか。池本氏とすれば、5七銀型振飛車の弱点である角頭を狙った急戦にもちこむか、あるいは得意の居飛車穴熊に組みたかった所だ。



(A図)▲2五歩△同歩▲同桂△2二銀▲3七金△2四歩▲2六金△4二角▲3五歩△2五歩▲同金△3三銀左▲4五歩△3五歩


 この対局は、チェスクロックを使用して、持時間は15分、切れたら一手30秒の秒読みという非常に厳しい条件でおこなわれた。
 局面はまだ駒組が続くと思われた所で、山中氏が突如▲2五歩としかけた所である。やゝ無理攻めと思われた攻撃であるが、先手の▲3七金から▲2六金が好手順で、意外と後手が受けにくい形となっていってしまった。後手△4二角と上った手が悪く、受けになっていなかった。ここは△5三角を上っておき、先手の桂を取らずに、しのぐしかなかったのでは。手順に先手に角を成りこまれては、後手が苦戦である。山中氏が▲3五歩以下巧みな手順で優位を確保したのは、さすがにベテランの味がでていると思う。


心の強さ
 85年(昭和60年)夏、米子に衝撃のニュースが駆け巡った。K氏が進学先の山口県のアマ名人戦決勝で中祖公司氏(下関市)に勝ち、代表となったのである。    
 名実共に実力者と認知されたK氏は、帰省後の89年(平成元年)、転勤で米子市に赴任してきた山中幸雄氏(元中四国学生名人、広島県豊田郡安芸津町出身)と知り合い、親交を深めることになる。山中幸雄氏との出会いはK氏の将棋人生に大きな影響を与えていく。
 
 
 この時期の西部棋界は、西部三強の中から抜け出した平井正人氏の西部名人位連覇の時代に入っていた。ポスト平井は、誰か?その頃、平井氏自身がK氏と指名し、また誰しもその実力を知っていたので、名人交代劇に西部棋界の関心は高まっていた。
 西部名人という少年時代からK氏の夢。しかし、そこまで届かない。はがゆい現実が続いていく。当時、師弟関係にあった山中幸雄氏は「まず県のタイトルを取れ。西部名人は後からついてくる。」とアドバイスを贈った。


 93年(平成5年)、K氏は県棋戦(鳥取県王将戦鳥取県アマ名人戦等々)のすべてに参加した。そして同年秋、西部名人戦挑戦者決定大会、準決勝で中学時代の級友三木徹参段を、決勝で師匠の山中幸雄四段を破り、挑戦者の座をつかんだ。
 西部名人を夢見た81年(昭和56年)から、12年の月日が流れていた。
 

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