西部支部のこと(後)

 その頃の西部支部はイコール高木支部長であった。今思えば、先生の人脈で、公民館対抗戦(20代から60代までの5人1組)や中学校の団体戦が行われていた。また、大会の冠がないので、米子市長杯・境港市長杯も設けられていた。高木先生が精力的に活動されていたのが、当時の西部支部であった。


 やがて、西部支部から県代表が出ると、高木先生は我が子のことのように喜ばれた。私自身も西部支部道場に通い始めて3年目の秋、西部名人戦挑戦者決定大会で優勝した時、高木先生はじめ道場の仲間が喜んでくれ、初の三番勝負の直前まで戦法を共同で研究したことを覚えている。
 また、高木先生は酒をこよなく愛されていた方で、季節を問わず、先生と共に朝日町方面に皆で出かけたものである。飲んでは語り、語っては飲む。軍隊で鍛えただけあって、酒は強かった。


 この前後と思うが、幹事長をしていた本居氏は西部支部を去り、新しく西王支部が発足させた。米子支部、西部支部、西王支部と3つの支部が狭い米子の町にできたのである。本居氏は郡部にまで足を伸ばし、普及に力を入れ、大会も精力的に開催していた。
 80年代後半になると、私も道場に足が遠のき始め、大会にもあまり参加しなくなっていた。この頃の道場は、以前のような活気は失せていたと漠然と記憶している。
 平成元年(89年)暮れだった。高木先生が倒れたと、幹事長の平井氏から自宅に電話がかかってきた。「ああ、西部支部が無くなるのか。」ということが、最初に頭をかすめた。
                                   (この後は、次の機会とします。)


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