西部支部のこと(中)


 昭和55年(1980年)7月、初めて西部支部の将棋大会に参加した翌日、勤務先に高木さんという人から電話がかかってきた。上福原の西部支部将棋道場(当時は毎日夕方から開催)への誘いであった。独身であったし、何よりの将棋好きなので、その後は毎日のように通った。
 同年代の20代が多く、皆強かった。自然と、角盤町の道場(米子支部)や博労町の道場に通うことはなくなった。


 当時の西部支部は、支部長の高木栄典氏と幹事長の本居碩夫氏の二人が中心で、『米子支部がどうとか・・』という会話がよくされていた。将棋連盟の支部が米子に二つあって、双方の関係があまりよくないことが漠然と分かってきた。(この年(昭和55年)4月、西部支部は米子支部から分離独立した。)
 新聞棋戦の主なものや観戦記を持っていた米子支部が本流であることは間違いなかったが、勢いは西部支部にあった。


 そして、西部名人位こそが県西部の最強者であることを知り、道場では同年代の誰もが西部名人位を目標にしていた。後に知ったのだが、この棋戦は米子支部時代の高木先生が昭和53年に創設している。将棋の普及について、米子支部の主流の役員と温度差があったのではないか。しばらくして、少数派の高木先生が自ら企画した西部名人戦と共に米子支部から去っていったということなのだろう。

 この頃、米子支部は活力を失いつつあり、一方西部支部は道場には活気があり、大会は常に盛況であった。土曜の夜ともなると、皆生通りにある上福原道場の駐車場は一杯で、歩道に何台も駐車させていたので、交番の巡査が出向いてきて注意されたことや、満員で道場の中に入りきれず、玄関に盤駒を持ち出して対局したりとか、当時の熱気は凄まじいものがあった。


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画像は上福原の西部支部道場。平成7年当時と現在の跡地(平成12年、解体された。)。