大田学さんのこと(3)

karasunogyozui2009-04-24

 写真はNHK大阪のスタジオの朝ドラ「ふたりっ子」の撮影現場。96年(平成8年)頃の写真で、大田さんをモデルとした佐伯銀蔵役の俳優中村賀葎雄さんとの撮影現場での語らい。そして、中央の野球帽は、香子役の三倉佳奈ちゃん。(矩口勝弘氏から提供を受けたものです。)


平成8年4月14日
大阪通天閣将棋センター
平井正人(米子市、45歳)
大田学 (大阪市、81歳)


第5譜 若山富三郎
 映画「王手」の撮影は、5年前、通天閣で夜を徹して行われた。明治生まれの真剣師若山富三郎が、現代の真剣師赤井英和が演じた。
 駒を指す手つきというのは結構難しい。若山さんはあまりうまくなかった。スタッフはやきもきするが、大ベテランなので注文はつけられない。
 「若山はん、こう指すんです。」傍らで見ていた大田さんのきっぱりとした物言いに、若山さんはまるで新人俳優のように何度も頭を下げ、指導を受けたという。その二人の姿にスタッフが感銘を受けたという話を聞いたことがある。
 その話を通天閣将棋センターの手合係の方に確かめると、「ええ、撮影が終わってから、若山さんは大田さんと温泉へ行く約束をして、たいそう楽しみにしておられた。それが間もなくして亡くなられましてね・・・・」 
 短い聞き書きであるが、別の道で辛酸をなめてきた二人の人生の奥行きが感じられる。
 対局後、大田さんは小さな声で、「若山さんが、生きておられれば・・・」。後の言葉は聞き取れなかった。


(D図から)▲55銀△86角▲48玉△34金▲44銀△37歩成▲同銀△44金▲36竜△35歩▲46竜(E図)指手通算71手



第6譜 旅の果て
 大田さんは、亡き友・加賀敬治氏と全国各地へ旅打ちに出た。旅行ではない!
 行く先々で勝負をし、負けたら一文なし。勝てば次の土地に向かう。「何せ相手がいないと宿代、飯代が出ない。東北仙台では、めぼしい相手が皆勤めに出ており、とうとうお客さん(相手)が見つからず、何日も水を飲んでいましたよ。」
 津軽三味線高橋竹山は自伝の中で、「あわれなもんだったナ、あの頃は。天気好(よ)いば村には誰も人いないし、海さ舟出して皆が漁しているのを見ながら、ただブラブラ道を歩いていたんだ。」
 その話をすると「同じですよ、全く」と大田さん。
 将棋を愛する作家の団鬼六氏(横浜市)は、「彼にとって、将棋は哲学であり、人生であり、宗教である。年に一回、家(うち)に来よる。真剣で指す。ところがあの年寄り、強いさかい、私が負ける。また坊主が托鉢(たくはつ)に来よるようなもんや。だから、私もキチンともてなす。嫌いな坊主やったら、すぐ追い返すんやけどなあ、ワッハハハ。」


(E図から)△84金▲44竜△85桂▲43桂△62玉▲31桂成△36歩▲26銀△43銀▲35竜△77角成▲93銀△83歩▲84銀成△同歩▲83金△54歩(F図)指手通算88手



第7譜 通天閣とともに
 対局時間はすでに二時間を過ぎた。窓越しの春の日差し、たばこの白い煙、隣のゲームセンターの喧騒(けんそう)。大田さんの背もたれの後ろには、合成樹脂の白い看板がある。「アマ名人大田学将棋指導席」と。
 「どうも、どうも。えらいことをした。」大田さんは投了を告げた。「△53金で△64銀はどうだったかな。」駒を並べ直すと、長い感想戦が始まる。膨大な変化手順を私はノートに記していたが、ついに触れることなく終わってしまった。
 プロでもないアマでもない真剣師として、最後まで自分の行き方を通した大田さんは、大正三年生まれ。この通天閣*1(明治四十五年建築)に毎日顔を出すのが日課とか。
 「これっ、土産です。ウルメのメザシです。カルシウムを取ってください」と私が言うと、「おおきに。背筋ピッと伸ばさんといかんなあ。ハハハ。」その和やかな笑い声の向こうに見える窓越しの街の景色には、やはり通天閣に集まる幾筋もの道があった。


(F図から)▲33歩△44銀▲65竜△33銀▲54竜△53金▲61金△同玉▲53竜△62金▲51金△71玉▲33竜△82銀▲22竜△83銀▲61飛まで先手の勝ち 指手通算105手


(96年5月の山陰中央新報観戦記から)




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*1:通天閣囲碁将棋センター
 76年(昭和51年)10月地下に開場。01年(平成13年)7月、閉鎖となった。96年(平成8年)当時は、地下の改装工事があり、階上(と言っても、かなり高い所で、エレベーターで昇った)のゲームセンターのある所で仮住まいしていた。