続・日本将棋考(後)

karasunogyozui2008-09-27

 99年の日本海新聞に書いたものですが、写真の文庫本(増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」)を読んで感心した部分をまとめたものです。


 中世に流行した中将棋は、公家・僧侶を中心に一般にも広く指された。
 しかし、賭(か)け将棋が流行したため、禁令がしばしば出された。賭博(とばく)は戦闘意欲の喪失につながるからであった。しかし、禁令を出す側の公家たちはどうだったか。賭けに対する罪悪感はみじんもなく、高価な花瓶、香炉などを賭けてバクチを楽しんだという。連歌(れんが)や闘茶(茶の産地を当てる)といった高尚な遊びでさえ、バクチの対象であったというから驚く。
 後鳥羽天皇の日記には、「十月十一日、雨降る。連歌の会ある。賭物を銭にしたのは常と変わらない。近ごろは銭を卑しむようになったが、これはその由緒に似つかわしくない。昔は一つの遊びにだけ銭を賭けたのではなく、多くの遊びに賭けられた。」とあり、銭を賭けて遊ぶのは当然のことであった。囲碁・将棋はもちろんのことであった。
 現在からは想像もつかない世界である。


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王位戦、深浦王位防衛→リンク先・北海道新聞