続・日本将棋考(前)

karasunogyozui2008-09-26

 先週金曜の続編、昔は主に2種類の将棋があったようです。(99年の日本海新聞より)
 写真はツリフネソウ。


 囲碁・将棋が専業となりえたのは、財政力のある戦国武将の経済的な庇護(ひご)を受けてからであるという。山陰の大名・尼子氏に仕えた武将の多湖辰敬の家訓が当時の情景を伝えている。
 「辰敬五歳ヨリ将棋ヲサスナリ。然ラバ将棋サシトテ人ノ沙汰アレバ、六歳ノ時御屋形栖雲寺殿御前ニテモサス也」、六歳の時に大人相手に勝つほど強かったので、尼子の殿様の前で将棋を指したということである。さらにその家訓には「将棋ばかりにかかりて手習いなどうとし」とあり、将棋に熱中するあまり勉強がおろそかになってはいけないと書かれている。
 戦国時代の将棋は、現在の将棋(武士の愛好した小将棋)と中世に公家を中心に流行した中将棋の二つであった。後に徳川家康が小将棋を公認としたため、中将棋は次第に衰微していった。
 将棋指しの生きざまを描いて話題となった映画「王手」では、大阪の通天閣を舞台に、若山富三郎赤井英和の演ずる二人の真剣師が夜を徹して中将棋を指すシーンがある。広い盤面、桝(ます)目の数が12×12。駒の数が九十二枚。終局が近づくにつれ、盤上の駒が消えていく。脇の駒台がないのが妙であるが、これは持駒の再使用が禁じられているからである。
 この中将棋は、関西では大正時代まで指されていたと聞く。酔象、龍王鳳凰というよく耳にする言葉は、いずれも中将棋に登場してくる駒の名前である。


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