板谷進九段の言葉 

karasunogyozui2007-08-29

 すでに述べたが、鳥取県王将戦は、その後21世紀王将戦、アマ王将戦へと変遷していく。
 当時の西部地区では、鳥取県王将戦は米子支部が管轄していた。ここから、少し話はそれる。当時の西部地区の状況、そして西部支部がこの棋戦を管轄する経緯についてふれたい。そのことが、後にこの棋戦の発展的解消につながっていくからである。

 
鳥取の米子はどうなっているんだ。小さい町に3つも支部があって・・・。」
 83年春、将棋界の重鎮である故板谷進九段が大きい声でぼやいておられたのを今でも覚えている。大阪上六の支部対抗戦西日本大会の会場の一角で出来事だった。
 当時の米子には、西部支部のほかに米子支部と西王支部があった。
 米子支部鳥取県王将戦と山陰名人戦山陰中央新報)の2大棋戦を、西王支部日本海新聞(県アマ名人戦)の観戦記欄担当していた。当時は地方紙2社(山陰中央新報日本海新聞)を押えることが支部の看板だったので、そこが西部支部の弱点であった。
 高木先生(西部支部)の人脈で日本海新聞の紙面協力(大会結果)を得たり、道場・大会とも盛況なのは西部支部だったが、いかんせ看板がないので、対外的には弱かった。


 89年暮れ、高木先生が倒れると(91年1月永眠)、西部支部平井正人氏(幹事長)を中心とした体制になった。支部の看板がないことから、山住氏が朝日レーティングの開催にこぎつけたり、米子将棋まつりを団体戦(全国道場対抗戦山陰予選会)としたりした。また、3つの支部の大会が重ならないように、日程確認もしていたが、どういう訳か大会の日程が重なる。故板谷進九段が憂えた通りだったのである。
 93年の秋、3つの支部の大会が重なった。西部支部の大会はつつがなく終了したが、特に米子支部主催の大会(鳥取県王将戦西部予選)は予想外に参加者が少なかった。ここが分れ目となり、西部地区再編へとつながっていく。