米子の町のプチ自慢(後)
米子市和田にある西部支部道場は、弓ケ浜半島の中央に位置し美保湾に接している。その昔、入り江のようになっていたので、古語の「わだつみ」あるいは朝鮮語の「パダ」(海)が転じたと言われている。
画像は金畑実画集・弓ケ浜半島(昭和33年作)。
さて、昨日の続きで、作家の司馬遼太郎と画家の須田剋太の弓ケ浜半島の旅。
『浜の東はしを背骨のように431号線が走っている。途中、大篠津という在所のドライブインで休息した。目の前が、砂浜である。すぐなぎさになり、そのむこうの海は、盛大に波頭を立てていた。
「波の風もつよいですね」
須田画伯が、おそろしがった。
「大丈夫ですよ、ここは陸地ですから」
「私(わっち)は、泳げないんです。」
いまにも美保湾がまるごと押しよせてきそうな言い方だった。弓ヶ浜半島という細長い砂洲は、須田さんの感覚からみれば、激流の上の吊り橋のように不安定なのであろう。』
暢気(のんき)な会話で大篠津の住人が聞いたら、悲しくなる話である。さらにこの一帯は、「中世までは木もはえてなかった」とか「水がなく、『焼場』(やけば)と言われていた」とか書いて、追い討ちをかける。
と、ここから突然鳥取藩の功績に話になる。
1702年頃に日野川の河口から4、5キロのところを取水口として、弓ヶ浜半島をタテに引きさくように新堀の工事が始まった。河崎までの第一期工事が終了すると、砂地栽培で棉作が行われた。さらに20年後に富益まで伸びた。*1美保湾の雑魚を肥料とした棉作栽培で弓ヶ浜半島の人口は飛躍的に伸びたようである。
この頃の地元の熱気・喜びは相当なもので、富益村では、この工事を行った米村所平の名にちなんで、米川(よねがわ)と呼ぶようになった。
以上、「街道をゆく・伯耆のみち」からでした。
さて、米川を旅します。
河崎の浜橋付近。
博労町4丁目の啓成小学校付近。
車尾(くずも)の角田酒店付近。
東山陸上競技場付近。
観音寺の家並みの間を流れる米川。
観音寺は取水口である。
日野川の土手が見えてきた。
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*1:第3期工事は、さらに30年後、境水道に到達した。