中国名人戦・西部勢の活躍

karasunogyozui2009-06-17

 今年で52回目の中国将棋名人戦は、中国新聞社が主催する中国5県で最大の棋戦で、鳥取市米子市で交呉に開催している。以下は、道場の本棚にあった中国素人将棋名人戦「熱戦譜」と題する冊子より。


 第1期は、昭和33年10月26日、広島市堀川町の田中旅館で開催された。中国5県の代表16人(広島は4人)は初の名人位を争った。山口代表の江里口四段が岡山の藤原雄三四段(2年後の昭和35年から3期連続の中国名人)を破り初代名人位を獲得した。
 審判長は日本将棋連盟の松浦卓三八段。参加資格は棋力1級以上で、出場者には広島市までの国鉄3等往復汽車賃と宿泊費1泊分が支給された。なお、中国名人には日本将棋連盟から五段免状が贈られた。
 鳥取県代表は、三好泰造二段、伊藤忠弘、前田利治の各氏。


 昭和45年の第13期名人戦挑戦者決定大会は、米子市皆生温泉の弓ヶ浜荘で開かれ宮崎秀雄五段(米子市)が勝ち残った。小阪英男名人(津山市)との3番勝負は、10月31日、津山市の雅城閣で行われた。宮崎五段は1勝1敗のあと、惜しくも名人位を逃した。優勢な将棋だっただけに、局後「いい将棋が指せると思った・・・」と肩を落とした。
 続く昭和46年、再び挑戦者となった宮崎五段、名人戦3番勝負は10月24日、津山市の雅城閣で行われた。3期連続名人の小阪英男名人(津山市)を破って前年の雪辱を果たした。


 昭和61年から県代表枠は3名から現在1名の狭き門となった。
 平成元年に平井正人四段(米子市)が鳥取県代表となったが、挑戦者決定大会では2勝3敗で3位に終わっている。この年は高木栄典支部長が病の床に倒れた年であった。
 平成3年1月、高木支部長永眠。この年の秋、再び県代表になった平井氏は、10月12日、広島市中国新聞ビルで行われた挑戦者決定大会は4勝1敗で優勝、宮本名人への挑戦権を獲得した。3番勝負は惜しくも及ばなかったが、中国名人戦3番勝負に西部支部が名を留めた最後の年となった。
 

 写真鳥取県王将戦(平井・北村戦)で、中国名人戦とは関係ありません。


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