将棋とよなご(2)

karasunogyozui2009-06-09

84年(昭和59年)4月、後藤喜三郎氏(米子市岩倉町)の文章から。
画像米子市角盤町1丁目付近(撮影時不明)。


 昭和23年頃の、米子将棋界は戦後最高の熱狂振りで、中央より塚田正夫名人、土居市太郎八段、郷土出身の松田茂行八段(現九段)等々の相次ぐ来米で、いやがよにも盛り上って賑やかなものでした。
 西伯町手間の市川伸君が、大山八段(現会長)の内弟子になるのが決まり、亦赤碕の佐伯昌優少午(現七段)も愈々*1坂口允彦八段の下に入門することになり、角盤町の天理教々会で送別将棋大会を開きました。当日激励並に祝福に駈け付けた参加者は、実に120名に及び当時の将棋熱の高さを如実に表わしております。然も、参加者一人に夫々掲きたての小餅二個宛配られたのが、当時食糧事情の思わしくない折柄嬉れしかったものでした。
 亦万能町の三光荘(旧錦魚亭)で塚田名人を招待いたしました時には、倉吉・赤碕方面からも多数来会されまして、赤碕の岩本、福田、倉吉の神野さん等々思い出が有る将棋を指して呉れました。当時の対局風景が走馬燈の如く脳裡を去来いたします。
 其の後4、5年してから倉吉の大田学さんが頭角を表わし、現在アマチェアの雄として、大阪は通天閣町道場を持って活躍しておりますことは、皆さんすでに御承知の事と思います。
 また、丸田祐三、解説でお馴染*2の倉島竹二郎、金子金五郎北斗星氏等々、当時将棋会のトップクラス四、五名がプライベートの旅として皆生温泉に行くとの事で、米子駅迄出迎えに行ったことも有りました。
 さて愈々将棋ファン待望の大山康晴名人を昭和29年の夏、皆生温泉街東光園に招待致しまして、親しく指導を受け、改めて名人の強さ、偉大さに感銘し益々将棋の普及活動に熱がはいったものでした。
 将棋道場も次々と代わり、或る時は明治町の椿氏宅、或は立町の牧野清三郎氏宅、道笑町の阿部木工所、万能町の福島サンライス等々当時の将棋愛好家の善意により次々と自宅を開放し、将棋普及、発展に寄与されたものでした。
 この時代特に功献された人に、通称青空倶楽部といって明道小学校筋、現在植木市、野菜市等が開催されている街筋に美容院があり、そこの御隠居さん(当時80才位)が大変将棋好きで将棋盤十面位、長椅子五ツ位を自費で用意され、将棋愛好家に無料提供されておられ、困にその当時の常連で現在もなお第一線で活躍されている方々、当時天才少年と騒がれていた現宮崎秀薙五段を始め、井原誠五段、高橋正美四段、荒木勇治三段、池淵竹盛氏等々。その他市川伸元プロ五段を始め、今は故人となられた鹿津、椿、三好さん等多士済々、当時の米子地方の強豪連がひしめいておられました。
 この様な先人、先輩諸氏の御功績により現在の活況が有るものと思い、今後益々棋道発展、普及に老骨に鞭打って頑張り度いと思っている次第です。棋友諸氏の今後変らぬご後援をお願いし擱筆*3します。


附記
 昭和23年頃の免状所有者(関根名人の免状)三好、北浦、森田、庄司世話人 瀬戸、銀杏堂、一角行孝、福島哲、佐々木二兵衛等々の方達でした。(敬称略)



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