将棋と米子(1)

karasunogyozui2009-06-06

84年(昭和59年)4月、後藤喜三郎氏(米子市岩倉町)の文章から。
画像は、25年前の西部支部道場(米子市上福原)。


 昭和2年頃は、日本将棋連盟誕生の年だったと思います。世は正に不景気の絶頂で、かの有名な浜口雄幸内閣の緊縮財政時代、不況の深刻さは流行歌にもなった程でした。
 当米子市に於いては、大正の初期・末期、昭和の初期の時代でも、各町内には二、三名の将棋強腕の指し手は居たものです。
 趣味にも色々あります。囲碁、将棋、麻雀、パチンヨ、玉突、俳句、短歌等々、中でも将棋は一等お金が要らないものゝ一つです。若しも私が将棋を覚えていなかったら、私の人生は今、現在より大分違って居る事と思います。本当に将棋の道を選んだので、何かとプラスとなって喜んで居ります。
 大正時代の将棋界は、十三世名人関根金治郎氏で、当時の名人は世襲制度でした。昭和初期(13年)の頃、新聞社による名人戦が始まり、制度が変わってまいり御存知の木村義雄氏が十四世名人として誕生されました。
 翻って大正中期・末期の米子の将棋界の指し手は、各町内にそれぞれ有名な棋士が居られました。天神町の森栄重さん、中町のゆば屋さん(宮脇さん)、駅前の鹿津源蔵さん、東倉吉町の讃岐屋さん、明治町の中村活版屋(椿賢憲さん)、茶町の豊後屋さん、椛町の加納さん、尾高町の古島治良平さん、岩倉町の住田利忠さん、灘町の北浦充尚さん(元市会議員)、立町一町目白井武さん、三丁目の佐布さん、内町大原さん、紺屋町の稲木忠三さん、上田佐太郎さん、日野町三好盛一さん等々、まだまだ居られると思いますが、私には解りません。  


 昭和16年頃かと思いますが、当時有名な記録があります。鳥取市出身の松田茂行氏(現九段)が、五段時代に八段棋士を総なめにしたことです。将来の名人は松田氏か、升田氏か、大山氏かと評判になったことがあります。岸本町出身の角田三男五段(現七段・日将連県西部師範)も関西地方の専門棋士で、将棋指しの仲間では話題の一つでした。昭和21年迄は戦時体制で、将棋界も余り芳ばしくありませんでしたが、戦後昭和22年頃から米子地方にも将棋熱が盛んになりました。法勝寺町油屋書店内に、日本将棋連盟米子支部が誕生致しました。支部長は森田嘉一病院長(現上福原森田産婦人科院長の父上)でした。
 当時は、鳥取市松江市にも未だ日本将棋連盟支部は結成されておりませんでした。また、松田茂行九段・大山康晴会長の後援会も結成いたしました。旧米子市役所前の大毎新聞社米子通信部に、或る日突然大山八段が来米されました。大雨の降りしきる中を傘をさして米子支部まで田村初段が道案内されまましたこと等、今は壊しい青春のエピソードの一つです。
 その頃の将棋界は、初段とか弐段等は稀で数える位のもので、今の様な人数ではなかったのです。また指さずの初段といって、免状を取っても対局は全然されなかった人も居られたのも、当時有名な話でありました。
 いずれにしても、将棋普及に棋力の向上に努めていた青春時代でした。


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