思い出の鳥取県棋界(戦後)

karasunogyozui2009-06-05

画像は宮崎秀雄5段(25歳頃)。
 

 此の所、プロ・アマ棋界を問わず、その隆盛ぶりには目を見張るものがある。戦後、間もない頃、私が本格的に将棋の世界に足を踏み入れた時代に思いをはせれば、ひとしお「今昔の感」を感じる。公式の大会では、昭和27年に米子棋界に初めて出場したが、其の当時の強豪等の顔ぶれは、現在、ほとんど故人となられた。
 確か昭和27年の6月頃であったと記憶するが、米子市万能町にあった料亭「三光荘」でアマ名人戦の県予選が行われた。参集した強豪では、倉吉の大田学五段、米子の森恵十五段*1、東伯の宮脇敏行四段*2等、プロになる前の佐伯昌優初段(16歳)の姿もあった。この大会を制したのは、大田五段で昭和25年から3連覇を達成。此れ以後、大阪に居を移し、セミプロの世界に進まれた。


 当時の強豪を地区別に回顧すると、鳥取市には、児島四段、上山四段、前田三段、松本二段、勝原二段。郡家町には三好三段。倉吉に大田五段。赤碕には岩本二段、稲田初段、佐伯初段。西伯町には西初段。米子では、椿四段、鹿津三段、益田三段*3、池岡三段、牧野三段、堀口二段、小泉初段、三好二段、白川二段、山口初段、古島初段、伊藤初段、庄司初段、杉原初段等。会見町には山中一央初段。*4米子市夜見町に森恵十五段。大篠津町に足立三段。境港には佐々木四段、角行孝二段、角勝二段、福島初段等。他に初段クラスの人は多士済々だった。当時の初段は権威があって、現在の二、三段クラスに当ると思う。
 そして昭和20年の後半から昭和30年頃にかけて台頭して来たのが、鳥取市では米村、森脇、福本の新鋭で、森脇、福本の二人はプロ棋界に入ったが、大成せず三段と二段で終わっている。福本は若くして亡くなった。
其の他松本二段は五段まで昇り、第1期中国名人になっている。中部では赤碕の岩本二段がアマ名人戦県代表となり四段に昇進している。手強い将棋だった。また稲田初段は四段まで上がり、県の大会でも常に優勝にからむ指し手だったが、惜しむらくは昭和38年頃、まだ31歳の若さで事故のため亡くなった。そして会見町の山中初段、米子からは宮崎が台頭して来たのである。

 
 そして昭和30年代になって公式の大会で活躍したのが、前期は岩本四段、松本五段、米村五段、山中四段、宮崎五段、稲田四段で、後期に入ると米村、宮崎のみとなり、他の人はほとんど大会に出なくなった。しかし、境港の角氏が復活をして来られ、時折鳥取市の児島、前田両氏が活躍される程度となった。
 振り返って見るに、先に上げた強豪とは、ほとんど対戦している。しかし、私の若い時一番多く戦ったのは宮脇、椿氏だろう。森氏には非常に期待され、勝負感及び対局の心構えなどを話して頂いた。また私の十代の頃、目標とした益田毅三段、この人達が特に印象に残っている。今はすべて故人である。健在なのは、角行孝五段と山中一央四段、米村幸一五段が県内にあり、大田学六段が大阪におられるだけではないか・・・と思う。*5他に現在でも元気ではあるが、公式の将棋大会には昭和30年代から出場されない人もある。
 私が米子の将棋界に出場したのは昭和27年、あれから四十数年の月日が流れ、此処に名前を上げなかった数々の人達も故人となり老齢に入っている。人生の流れの早さを感じる。


 96年6月、宮崎秀雄5段(米子市新開、04年度のシニア名人)の文章から


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*1:森恵十五段は、当時山陰棋界の長老で、大正の末から昭和の始めにかけて、中国一円で無敵を誇った強豪であった。小生の若い頃、特に目をかけて頂いた思い出がある。昭和37年、大篠津の足立康雅氏宅で対局した当時、氏は81歳。

*2:宮脇敏行五段は、セミプロの大田学五段の師匠格にあたる人。東伯町出身。非常に将棋を愛された人。小生の若い時、椿氏と並んで一番多く戦った人である。昭和38年、大篠津の足立康雅氏宅で対局した当時、氏は66歳

*3:米子棋界で最強組の一人で、激しい攻め将棋だった。昭和29年頃、氏を目標にして精進した思い出がある。当時30歳。

*4:昭和29年アマ名人戦鳥取県代表。当時25歳。

*5:角行孝氏、米村氏は故人となり、07年2月、最後の真剣師と言われた大田氏も他界された。