山陰こども将棋事情(前)

karasunogyozui2009-02-20

 山陰という大袈裟な冠をつけたが、西部支部道場の今日あるのは、子供達の力によるところが大きい。
 将棋道場というのは栄枯盛衰が激しいもので、90年代の高木先生亡きあとの道場は人も疎らであった。大人が数人いて、小学生は一人か二人混じっているという程度であった。


 95年だったか、日本海新聞の将棋観戦記に土曜こども教室をPRしたら、これが口コミで広がり、福原校区の小学生を中心に道場は子供達であふれ、玄関先の下駄箱のところまで将棋盤を並べた記憶がある。道場に活気が戻ってきた時代である。
 この頃は教えるというより、群れている子供達を競わせて、級位を認定するというもので、この中で上位の子供達が西部支部の大会に参加した。大会には鳥取、倉吉、松江、出雲から、強い子供達が来てくれるので、それが刺激となって、米子の子供達の棋力も向上していった。そして、この頃から、一般の部のB・Cクラスで優勝する小中学生が出始めた。


 ただ、土曜のこども教室の喧騒を見て、批判の言葉を口にして帰る大人も多くいた。「将棋を教え方が悪い」「遊びに来ている子供が多い」「(私が)子供に甘い」というもので、確かにその通りであろう。学校の授業のようにするのが理想であるが、「遊びに来ている」と断定しにくい。集中力が途切れることはあるし、あまり厳しくすると道場の雰囲気が暗くなる。
 そうした批判は単に注文程度のことであったが、03年から04年にかけて、実際の道場に出向いて子供にマンツーマンで教える熱心な指導者が登場してきた。


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画像福寿草(季節の花300)