高木杯あれこれ 1

 故高木栄典氏が西部支部を設立したのは、1980年(昭和55年)4月であるから今年の春で29年目を迎える。当時、県西部には米子支部があり、そこから独立したのだが、経緯はよく分からない。
 その頃、私は米子に帰ってきていて、日曜になると博労町の道場(米子同好会)や角盤町の米子支部(阿部一彦氏宅)で指していた。確か7月の暑い日だったが、皆生の菊水本館で将棋大会をやっていると聞いたので、出かけてみると、100人ぐらいの人が畳の大広間で指している。締め切りから30分遅れであったが、参加させてもらった。
 翌日、勤務先に高木と名乗る人が電話をかけてきた。上福原に西部支部の道場があって、毎日開けているという誘いであった。早速、出かけてみると、平日の夜でも大勢の人がいて、道場の雰囲気がとても明るく楽しかった。その後は、毎日道場に通った。
 大会も毎月あり、かかさず参加したが、いつも活気に満ちていた。ただ、西部支部は新聞社の大会がほどんどなく、高木先生の人脈で唯一日本海新聞の西部名人戦、ほかは米子市長杯、公民館対抗戦等々と工夫されていた。(新聞社の棋戦は老舗の米子支部が行っていた。)


 その頃は米子支部が地方紙2紙の観戦記を持っていた。当時は観戦記欄に載るということがステータスだったので、そこにも西部支部の弱点があった。
 ある時、高木先生が年3局ほど観戦記を西部支部で受け持つことになったので、書いてみないかと言われた。数日後、原稿を持っていくと、原稿料と言って封筒を手渡された。何千円が入っていた。文章を書いて、お金がもらえる。私は嬉しかった。80年代のどの頃か覚えてないが、何局か書いて、その都度封筒を手渡された。
 多分、高木先生が倒れてからだと思うが、ある人から封筒のお金は高木先生のポケットマネーと教えられた。高木先生は、新聞社が観戦記欄を委任した人と交渉し、ノーギャラでいいから西部支部に紙面を分けてくれと交渉したのだろうか。真相は知る由もないが、ただ、高木先生はそういう人であったことは事実である。


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