故郷は遠きにありて at 金沢 (後)

 11月14日午前9時、金沢駅から自転車で走ること20分。雨宝院に到着。


雨宝院 


 早速、10年前のお婆さんの安否を尋ねると、すでに亡くなっておられ、今回は住職(60歳前後)が資料室に案内してくれた。明解で淀みのない説明で、資料の一つ一つを見ながら、犀星の人となりを話して下さった。高等小学校を中退すると、裁判所に勤務、上司から俳句を習った。また市内の貸本屋の本をすべて読み終えたと言う。そして、自作を新聞・雑誌に精力的に投稿した。「偉くなりたい」という気持ちが人一倍強く、詩で身を立てようと上京した。
 「とにかく闘争心の強い人だったんです。」上京後の生活やエピソードに触れながら、住職が締め括った言葉であった。そして犀星のライバルは芥川龍之介であったという。片や小学校中退、片や東大卒。犀星の努力は並ではなかったようだ。
 闘争心。(突然、将棋の話に戻りますが)16日の西部名人戦三番勝負を戦う15歳の二人の少年は、小さい時から人一倍意地があった。軽井沢の宿で机を並べて執筆活動をしていた犀星と芥川の話を聞き及んでは、二人の少年の日に日に大きくなっていく闘争心について考えていた。


犀星の交友関係のパネル(石川近代文学


 資料屋の窓の外には小さな庭があって、杏(あんず)の木や石蕗(ツワブキ)の花が見える。住職は幼年時代の中で義母の赤井ハツのことは少し悪く書かれていることについて、それは創作であって、事実ではないと語った。犀星は事前にハツに断りをしていた。『詩で食えなくて、小説を書くことになったけど、お母さんのことを悪く書かないと、売れない。』ハツはどう書こうと構わない、ハツは犀星が小説を出版することを心から喜んだという。


 と言うことは、担任の教師との確執も創作だったのだろうか。
 毎日のように居残りを命じられ教室で立たされる犀星は、【先生のみにくいぼつぼつに穴のあいた天然痘の痕(あばた)のある頬(ほお)を思いうかべた。それが怒りだすと、一つ一つの穴が一つ一つに赤く染まって行った。そんなとき、私はいつもなぐられた。チョークの粉のついた大きな手が、いつもうつむいて宿命的な苛責(かしゃく)に震えている私の目からは、いつもそれが人間の手でなくて一本の棍棒(こんぼう)であった。その棍棒が動くたびに私の全身の注意力と警戒と憤怒(ふんぬ)とがどっと頭にあつまるのであった.私の怒りはまるで私の腹の底をぐらぐらさせた。】(幼年時代


 住職は「いやぁ、あれは事実のようです。実は犀星は晩年野町小学校から校歌の作詞を頼まれたんです。その時の喜びようは大変なものだったようです。その詩のなかに例の瓦が出てくるんです。」
 【私はしまいには(教室の)窓から見える人家の尾根瓦が何十枚あって、はすかいに何枚並んでいるかということ、はすかいの起点から下のほうの起点が決して枚数を同じくしない点からして、ほとんど四角な屋根が、決して四角でないことなどをそらんじていた。】(幼年時代


晩年の犀星


 犀星はすでにこの時63歳。成績もよくない、素行もよくなく毎日立たされていた少年が校歌が書くことにはなったわけです。

 
  野町小校歌  室生犀星作詞、平井康三郎作曲 昭和27年
   春もいつしか  庭先に
   年は過ぎゆく  窓よりぞ
   濡れし瓦を  数えしが
   われら育ちし  師の教え


カラスの勝手 「人気ブログランキング」に参加しています。
←ここを1日1回応援のクリックお願いします。