昭和59年鳥取県王将戦3番勝負(前)

王将戦3番勝負

 鳥取県王将戦は、その後21世紀王将戦、アマ王将戦へと変遷していくのは、一昨日述べた通りです。
 そこで今日は 、昭和59年12月の西部支部の機関紙にある平井氏の文章で、当時の様子を紹介したい。
 実は、このことについて、昨日、平井氏から難色を示されたのですが、棋界の発展のため、ここはご承知おきください。
 また、文中の北村氏には、当時の棋譜の一部を明日紹介の予定ですが、ご理解賜りますようお願い申し上げます。



王将戦三番勝負を振り返って鳥取県王将 平井正人)


 11月3日、いよいよ一年で一番苦しい日が迫って来た。好きな将棋を指すのに、苦しい日とは何事かと言われる方も多いとは思うが、練習将棋とは違い、精神的な弱さを持っ私には、勝ちたいと思えば思う程負担になってくる。
 一昨年、当時の王将位松田氏に挑戦した時の様に無欲で戦えばいいと自分に暗示を掛けても、三連覇を達成したいと思う気持ちの方が先に立つ。ましてや挑戦者は、東部の雄北村重嗣氏だと約一ケ月前に決定している。
 北村氏は県内では松田氏と並び称される程の強豪であり、中国アマ名人位、山陰アマ名人位二期、全国アマ名人戦県代表数回という輝かしい実績の持主で、私などは足元にも及ばない。多少救われるのは、対戦成績で私が数番勝ち越していることである。それと北村氏は振飛車一刀流なので、対振飛車の好きな私には作戦の立てやすい相手である。
 北村氏に対する私の戦法とは、居飛車穴熊左美濃、玉頭位取りの三戦法である。私はこの三番勝負には三つの戦法を全部指すつもりであった。結果的には、第一局居飛車穴熊戦法、第二局左美濃戦法の二局(二―○)で終ったが、三局目まで指していたら、多分私は負かされていたと思う。正直な話、お互いの力関係からして三局目まで必ず戦うと思っていた。
 まず、第一局、私の居飛車穴熊対四間飛草戦法という予想通りの戦いになった。序盤から中盤では私の優勢となったが、北村氏独得の粘り強さで私の攻めが空振りし、北村氏の逆転となるが、この瞬間余りの好転にホッとした為、大悪手(北村氏の感想)を指し私の辛勝となった。総手数177手になる熱戦となったのを指運よく勝ったのが、第二局に好結果を与えたと思う。


 写真は、米子市皆生の温泉会館で行われた3番勝負。平井氏(左)と北村氏(右)。