小林繁投手のこと

karasunogyozui2010-01-19

 昨日はテレビ・スポーツ各紙とも小林繁氏急死の話題であった。78年のドラフト騒動、いわゆる江川事件で時の人となり、阪神に移籍後の大活躍は当時の国民で知らなかった人はいない。
 小林投手は大栄町由良育英高の出身であるが、高校時代は全くの無名で、当時は同学年に広島の佐伯投手(広陵高→広島)、島根の三沢投手(江津工→中日)、一学年下で梨田捕手(浜田高→近鉄)という有名選手がいた。


 手元に正確な資料がなく残念だが、以前、夏の甲子園鳥取県予選をOBに振り返ってもらう企画が朝日か日本海かに載っていて、米子工のエースであった鍵谷氏が70年の夏の予選のことを語っていた。*1 鍵谷氏は、記者から小林投手のことを尋ねられるが、思い出せない、答えらない。当時のスコアブックを見せられて、はっとした。この試合*2、鍵谷投手は9回2死、最後の打者を向かえ、完全試合*3目前であった。簡単なピッチャーゴロに打ち取り一塁に投げ、試合終了と思った。ところが、セーフ。最後のバッターの何と!足の速いのこと。後続は押さえ勝ったものの、鍵谷氏には惜しい試合であった。
 その最後のバッターが小林氏であることを鍵谷氏は初めて知ったのである。

 
 いつの頃からか、小林繁と言えば、高校最後の夏の大会、一塁までグラウンドの砂埃と共に全力で駆け抜けていった姿が、まるで実際にその場で見たかのような記憶と化して蘇ってくる。
 どんな思いで最後の打席に入り、どんな思いで走ったか。最後まであきらめない。大きな仕事をやり遂げる人は、やはり何かが違う。


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画像は黄梅。(季節の花300)

*1:鍵谷氏と言えば、兄さんが米子東で甲子園に出ており、当時県西部では野球一家として有名であった。

*2:由良育英高戦で、多分初戦の1回戦だったように思う。

*3:ノーヒットノーランだったもしれない