神戸・米子記念対局(2)

平成9年1月12日
米子市皆生温泉 松涛園


▲松平信一(神戸市)、野田敬三五段
△田中康晴(米子市)、淡路仁茂九段



(松平・田中戦)B図から▲2二角成△同玉▲6七銀△3三角▲8八角△8六飛▲3三角成△同銀▲8八歩△7九角(C図)


 田中支部長の一連の手順を見て、淡路先生は「うん、支部長、ツヨイ、つよい、強いわあ。私の思った通りに指し手くれるぅ。」(注。ここは関西弁で読んでください)
 局後の両先生の感想によると、5手目の先手▲8八角では▲5五歩でいい勝負(以下8六飛、8八歩、8七歩、7七角、8二飛、3五歩)。
 さて、ここで両先生を紹介します。淡路仁茂九段(46)は故藤内金吾九段門下で二十代の頃真部一男青野照市プロと共に三羽ガラスと言われ、当時六段にして棋聖戦挑戦者となったことは記憶に新しい。粘り強い将棋で手数が長くなれば必ず勝つことから、長手数の美学そして不倒流と呼ばれた。


 野田敬三五段(38)は、森安秀光九段門下で33歳という当時の年令制限ギリギリの四段昇進であった。遅い昇進について当時の心境を尋ねると「う―ん、ボクはのんびり屋でしたから」と思いがけない言葉が返ってくる。ところで、野田先生(実家は豆腐屋ではなく貿易商!)は、関西奨励会幹事でもある。「ふたりっ子*1の猿渡幹事*2(顔で演技する俳優の国村隼)のように特定の会員をエコ贔痕(ひいき)することは、絶対ないですよ。それから対局拒否による不戦敗。これは大変なことで退会処分になるかもしれません。まあドラマですからね。」と懇親会の席で笑いながら語ってくださつた。



(野田・淡路戦)▲7八飛△8八角成▲同飛△同飛成▲3五歩△8九竜▲4五歩△6六歩▲5八銀△7六歩 (D図)

 ▲7八飛では▲4八飛の順も局後検討された。(以下8八角成、3五歩、6六歩)D図での△7六歩はキツーイ一着。淡路先生は「気の進まん手なんだがなぁ」と繰り返しておられたが、その深い意味は読者の皆様お考え下さい。
 一方、野田先生の指し手を傍(かたわ)らでじっと見守る松平さん。実はご先祖が姫路城下の旗本で、明治維新の時在所に散ったそうである。神戸に生まれ神戸に育った松平さんは、若い頃は演劇を志していた。ところが今から23年前、友人を介して淡路先生と知遇を得、将棋センターを神戸元町で開設するに至った。席主は平日が松平さん、日曜は淡路先生で正月を除き年中無休である。


 実は、23年間続いてきたこのコンビが、約一ヵ月間離れ離れになったのが、二年前の震災のときのことである。「約ニヵ月は近くの小学校で生活しました。共同生活でトイレ、水と不便な暮らしでした。ある晩、静かなところを求めて散歩に出ると、大きな体育館がありましてね。ふと戸を開けてみると、月明りのさす床全体に犠牲になった方たちの遺体が並べられていました。」それは松平さんにとって、忘れることのできない思い出であった。
 震災後再開した神戸元町将棋センターは、やはり以前に比べ客足は減り、平日は60人前後、日曜でも100人くらいというとであった。
 一昨年の米子将棋まつりの時の松平さんの言葉がよみがえってきた。「招待を受けた20人は家屋全壊者ばかりです。こうして将棋を指せる喜びをしみじみ味わつています。」(山陰中央新報より)



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*1:当時人気のNHK朝の連続ドラマ

*2:奨励会の幹事役で実家は豆腐屋