思い出の鳥取県棋界 7

後藤喜三郎氏の文章(84年、昭和59年)の続きです。今回が最終です。


 さて昭和29年の夏、愈愈(いよいよ)将棋ファン待望の大山康晴名人を皆生温泉街東光園に招待致しました。親しく指導を受け、改めて名人の強さ、偉大さに感銘し益々将棋の普及活動に熱が入ったものでした。
 将棋道場も次々と代わり、或る時は明治町の椿氏宅、或は立町の牧野清三郎宅、道笑町の阿部木工所、万能町の福島サンライス等々、当時の将棋愛好家の善意により次々と自宅を開放し、将棋普及発展に寄与されたものでした。
 この時代に貢献された人に、通称青空倶楽部と言って明道小学校筋*1、現在植木市、野菜市等々が開催されている道筋に美容院があり、そこのご隠居さん(当時八十歳位)が大変将棋好きで、将棋盤十面位、長椅子五ツ位を自費で用意され、将棋愛好家に無料提供されておられ、因みにその当時の常連で現在もなお第一線で活躍されているのは、当時天才少年と騒がれた現宮崎秀雄五段*2を始め、井原誠五段、高橋正美四段等々。その他市川伸元プロ五段を始め、今は故人となられた鹿津、椿、三好さん等多士済々、当時の米子地方の強豪連がひしめいておられました。


 その後、米子将棋界も年々隆盛になり、昭和47年頃、米子市社会福祉協議会主催で各校区の60歳以上を対象に月例会を行うようになりました。昭和55年頃から日将連県西部支部*3の後援により参加者もぐんぐん増え、昭和58年12月に米子市老人将棋同好会を結成、今後益々の発展を期したいと思います。


                   

*1:今は合同庁舎

*2:79年アマ名人全国大会3位、中国名人、05年全国シニア名人等々

*3:高木栄典支部が同年創設、最盛期の会員数は100名超