思い出の鳥取県棋界 6

後藤喜三郎氏の文章(84年、昭和59年)の続きである。


 昭和23年頃の米子将棋界は戦後最高の熱狂ぶりで、塚田正夫名人、土居市太郎八段、郷土出身の松田茂役八段等々の相次ぐ来米で、いやが上にも盛り上がって賑やかなものでした。
 西伯町手間の市川伸君が大山八段の内弟子になるのが決まり、また赤碕の佐伯昌優君も愈々(いよいよ)坂口充彦八段の下に入門するとこになり、米○○府天理教々会*1で送別将棋大会を開きました。当日激励会並びに祝福に駆けつけた参加者は、実に百二十名に及び、当時の将棋熱の高さを如実に表しております。然(しか)も参加者一人に夫々(それぞれ)搗(つ)き立ての小餅(こもち)2個宛配られたのが、当時食糧事情の思わしくない折柄嬉しかったものでした。
 また万能町の三光荘(旧錦魚亭)で塚田名人を招待いたしました時には、倉吉・赤碕方面からも多数来会されまして、赤碕の岩本、福田、倉吉の神野さん等々思い出が有る将棋を指してくれました。当時の対局風景が走馬灯の如く脳裏を去来いたします。
 その後4,5年してから、倉吉の大田学さんが頭角を現し、現在アマチュアの雄として、大阪は通天閣町道場を持って活躍しておりますことは、皆さんすでにご承知のことと思います。

*1:原文のママ